絶え間なく続いてきた巫女の歴史とは

巫女は日本に古くから存在し、その記録は『古事記』『日本書紀』(記紀)に見ることができます。
巫女の役割とは、天地の神や超自然的なものごとに通じ、祈祷を行い、物事や未来を占い、または自らの身体に神を憑依させて信託を伝える役割、そして神前で舞うなどがありました。女の場合は巫女と言いましたが、男が同じ役割をする場合には巫覡(ふげき)、覡などと呼び表しました。
平安時代の末期の文人、藤原明衡(ふじわらのあきひら)が著した『新猿楽記』には、巫女に必要な要素とは、占い、神遊、寄絃(よつら)、口寄(くちよせ)であると記されています。神遊とは神前の神楽の舞のこと、寄絃とは魔除けの儀式のこと、口寄とは神を憑依させ言葉を述べることです。
実は巫女とは、ユーラシア大陸やアメリカ大陸における古くからの「シャーマン」と似たような位置にあります。シャーマンが神の言葉を伝え、神に祈りを捧げる役割は、巫女とまったく同様です。巫女は古代から、洋の東西を問わず全世界的に広まっていたことを窺い知れます。

日本で確認されている、最も古い巫女の登場は、記紀の神代の時代に登場する、天鈿女命(あめのうずめのみこと)になります。登場の経緯は以下の様な話です。
素盞鳴尊(すさのおのみこと)が荒れ狂って、数々の暴虐を行った時、天照大神(あまてらすおおみかみ)は天石窟(あまのいわや/天岩屋)に閉じこもってしまい、世界は暗闇に閉ざされてしまいました。困った八百万の神々の代表者である思兼命(おもいかねのみこと)らは、天安河原で相談しました。そして天照大神を天石窟から外に出すために、長鳴き鶏や八咫の鏡や、さまざまな道具を駆使する中で、天鈿女命は矛を持って舞い、神憑りを行うと、天照大神は天石窟の外が騒がしいと思って、石窟の戸を少し開けて、外の様子をちらりと伺い見ました。その時に手力雄神(たちからおのかみ)が岩戸を開け放ち、天照大神を外に引きずり出すと、世界に再び光が満ちたという説話になっています。この神話で巫女神・天鈿女命は、太陽神を復活させるという重要な役割を果たしていました。

さて中国史書の『魏志倭人伝』を見ると、外国(魏)によって確認された最初の日本の巫女が登場しています。邪馬台国の女王、卑弥呼のことです。卑弥呼は「鬼道を用いて民衆を惑わせた」とあって、この鬼道が神道における、神憑りや呪術的なものと関係するかもしれないという説があります。

平安時代には、書物に神道と巫女についての記録が出てきて、神祇官の御巫(みかんなぎ)や、天鈿女命の子孫である猿女君(さるめのきみ)の官職があったなど、巫女の様子を知ることができます。
中世には、神前の神楽で巫女が舞うことはもちろん、巫女の舞いや神降ろしの儀式は、一般にも普及するようになっていきました。

明治時代を迎えると巫女禁断令が公布されたことにより、神憑りによって神の言葉を得るなど、巫女の行為全般が禁止されて、巫女文化は消滅の危機を迎えました。しかし巫女の歴史的な重要性は一般に広く認識されており、巫女を退廃させまいとする懸命な活動が、様々に現れました。
いま、巫女は神社の神職と、運営を補佐する役割と、時には神楽で舞う役割として定着しています。求人募集がされることなどで、古代から脈々と続いてきた巫女の姿を、現代の日本でも見ることができています。