絶え間なく続いてきた巫女の歴史とは

巫女は日本に古くから存在し、その記録は『古事記』『日本書紀』(記紀)に見ることができます。
巫女の役割とは、天地の神や超自然的なものごとに通じ、祈祷を行い、物事や未来を占い、または自らの身体に神を憑依させて信託を伝える役割、そして神前で舞うなどがありました。女の場合は巫女と言いましたが、男が同じ役割をする場合には巫覡(ふげき)、覡などと呼び表しました。
平安時代の末期の文人、藤原明衡(ふじわらのあきひら)が著した『新猿楽記』には、巫女に必要な要素とは、占い、神遊、寄絃(よつら)、口寄(くちよせ)であると記されています。神遊とは神前の神楽の舞のこと、寄絃とは魔除けの儀式のこと、口寄とは神を憑依させ言葉を述べることです。
実は巫女とは、ユーラシア大陸やアメリカ大陸における古くからの「シャーマン」と似たような位置にあります。シャーマンが神の言葉を伝え、神に祈りを捧げる役割は、巫女とまったく同様です。巫女は古代から、洋の東西を問わず全世界的に広まっていたことを窺い知れます。

日本で確認されている、最も古い巫女の登場は、記紀の神代の時代に登場する、天鈿女命(あめのうずめのみこと)になります。登場の経緯は以下の様な話です。
素盞鳴尊(すさのおのみこと)が荒れ狂って、数々の暴虐を行った時、天照大神(あまてらすおおみかみ)は天石窟(あまのいわや/天岩屋)に閉じこもってしまい、世界は暗闇に閉ざされてしまいました。困った八百万の神々の代表者である思兼命(おもいかねのみこと)らは、天安河原で相談しました。そして天照大神を天石窟から外に出すために、長鳴き鶏や八咫の鏡や、さまざまな道具を駆使する中で、天鈿女命は矛を持って舞い、神憑りを行うと、天照大神は天石窟の外が騒がしいと思って、石窟の戸を少し開けて、外の様子をちらりと伺い見ました。その時に手力雄神(たちからおのかみ)が岩戸を開け放ち、天照大神を外に引きずり出すと、世界に再び光が満ちたという説話になっています。この神話で巫女神・天鈿女命は、太陽神を復活させるという重要な役割を果たしていました。

さて中国史書の『魏志倭人伝』を見ると、外国(魏)によって確認された最初の日本の巫女が登場しています。邪馬台国の女王、卑弥呼のことです。卑弥呼は「鬼道を用いて民衆を惑わせた」とあって、この鬼道が神道における、神憑りや呪術的なものと関係するかもしれないという説があります。

平安時代には、書物に神道と巫女についての記録が出てきて、神祇官の御巫(みかんなぎ)や、天鈿女命の子孫である猿女君(さるめのきみ)の官職があったなど、巫女の様子を知ることができます。
中世には、神前の神楽で巫女が舞うことはもちろん、巫女の舞いや神降ろしの儀式は、一般にも普及するようになっていきました。

明治時代を迎えると巫女禁断令が公布されたことにより、神憑りによって神の言葉を得るなど、巫女の行為全般が禁止されて、巫女文化は消滅の危機を迎えました。しかし巫女の歴史的な重要性は一般に広く認識されており、巫女を退廃させまいとする懸命な活動が、様々に現れました。
いま、巫女は神社の神職と、運営を補佐する役割と、時には神楽で舞う役割として定着しています。求人募集がされることなどで、古代から脈々と続いてきた巫女の姿を、現代の日本でも見ることができています。

下北半島の恐山の霊媒師たち

下北半島の恐山の霊媒師たち、

以前に、今となっては何となく悔やまれる事態になってしまったが、普段はあまり旅行などにも行かない信仰心の強い母が、恐山へは一回だけでも行って見たいと言っていたのを思い出します。 その母も三界の人となってしまいましたが。

先般縁あって、その下北の恐山に行く機会があり、訪ねて見ました
車で近づくと、既に門前には広大な駐車場があり、週末の土曜日でもあったが早朝のせいか未だ人影もありませんで、門前の受付へ行くと開門は午前8時と記してあり真ました。

門を入ると、早速ながらそこに見えるのは物凄く荒涼とし殺伐とした風景が広がっていました。 まるで地獄の様相です。 ゴツゴツシした岩肌には無数の無縁塔や霊石等、それに見た通りのに地獄谷や血の池地獄、それに混じって観音御堂や開祖の慈覚大師(円仁)の像が祭られています。 確かに、この異様な風景は地獄に値する正に霊界そのものなのです。

霊場恐山を開いたのは、比叡山の開祖・最澄の弟子のあたる慈覚大師であり、その円仁が夢で「汝、東方の地にゆかば霊山あり、其処に地蔵尊一体を刻して仏道を広めよ」というお告げを受けたという。
元より、下北地方には大漁や五穀豊穣などの現世の利益を願う「地蔵講」という習わしがあり、古来より地蔵菩薩を信仰しながら死者への供養の場としても知られるのです。
特に、下北地方では「人死ねば みんな山(恐山)さ行ぐだ」と言い伝えがあるそうです。

この恐山には、最大のお祭である恐山秋詣りというのがあり、参道にはイタコマチと言って、イタコたちがテントで軒を並べ、そこへ多くの参拝人が並びイタコの口寄せを聞くという。 勿論、イタコというのは津軽や南部地方(岩手県北部)の巫女の総称であり、現世の人の願いに応じて死者の霊魂を呼び寄せ、その言葉を人に伝える、即ち、霊媒者のことなのです。
そして昨今の世の中を反映してか、イタコに口寄せを願う人が殺到するほど集まり、まるで予約でもしないと叶わないともされています。

さて、この「イタコ」とは全国的にも通用する、神の霊や人の魂などを地上に降ろす「霊媒師」のことなのです。 事実、イタコには長い歴史の中に連綿と続いていて、今なお日本の伝統霊媒術を継承するイタコ達が厳然と存在していりのです。
そして、イタコの能力的に最も知られているのが「口寄せ」といわれる降霊術、即ち、神を含めて死人や又、生きている人などあらゆる対象となる霊能を降ろし、そして本心を聞き出しながら予知や予言の行いをするのです。

そして、前述しているイタコは青森・下北半島の恐山が良く知られているのです。
先ず、「恐」と言う名前からしてオドロオドロしい感じがするもので、何やら人を寄せ付けない恐ろしい雰囲気が漂います。
現に昔から恐山の話をする時かは、「あの世の入口」、「死者の魂の群れる場所」、「霊感が強くなる聖地、霊地」、そして、現代流のパワースポットでもあります。 しかも恐山は日本国内でも最大のパワースポットとも言われているのです。

そして、「イタコ」を職業としての名称は霊媒師になります。
霊媒とは即ち、霊界から死者の霊や、或いは現存人の人の魂を呼び寄せたり、降霊させ、自分の身に憑依(ひょうい・霊などが乗り移ること、降霊、神懸り)させることなのです。

宗教学では、霊媒師の霊力は或る種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるとされていて、そして、恐山はその霊界との入口にあたり、イタコにとって最もその霊能力が発揮される場所とも言えるのです。

予言能力について

終末の予言者

世の中には「予言」という言葉があります。
予言とは、超能力者が未来の出来事を言い当てるような、神秘的な意味に取られますが、では辞書には何と書いてあるか、改めて確認してみます。
『大辞林』によれば予言とは、「未来の出来事や未知の事柄をあらかじめいうこと。また,その言葉」とあります。
『大辞泉』によれば『新古今和歌集』には「思ひいでよ誰が兼ね言の末ならむ昨日の雲のあとの山風」という歌が紹介されています。ここに用いられた「兼ね言」は予言と同じ意味であり、日本では昔から、予言が世の中に浸透しており、信じられてきた様子を窺い知れます。
『旧約聖書』でも、預言者が神の言葉を民衆に伝え、「これから何か災厄が起こるだろう」みたいな、未来を予言する記述も見られます。
中東でも日本でも、予言は将来を知るための指標のひとつとされたのですが、予言が当たることもあれば外れることもあります。外れた場合には「神に許された」と解釈するのが昔の旧約聖書の世界の信心深い人々だったようです。
現代の日本ならば「予言を外した」ことが、非難の対象になるのは間違いないところですが。

予言は神秘主義的な要素に満ちているかに見えますが、実は自然や科学の分野にあっても、予言は人間社会の身近なところに氾濫しています。
例えば天気予報というのも、未来を予測して人々に伝えるから、予言と言い換えることもできます。
湯川秀樹氏が、日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した理由も、予言にありました。湯川氏は、素粒子物理学における中間子という原子より小さな粒子の存在を予言し、その予言通りに中間子が発見されたことで、求人情報でノーベル賞を受賞したのです。

予言と占い

オカルト的な予言として最も世に知られているのは「ノストラダムスの大予言」であると思います。1980年代より以前に生まれた人ならば、ノストラダムスの「1999年7月、恐怖のアンゴルモアの大王が降りてきて地上が統治されるだろう」というふうな予言を知っているかもしれません。1999年当時、人類が滅亡するとか言われ、メディアを通じて大変に盛り上がっていたのです。
しかしこの予言は普通に見て「外れた」から、それ以来ノストラダムスの信用は失墜し、誰もノストラダムスを語らなくなってしまいました
近年になってから、ノストラダムスの予言は外れていなかったという見方も出てきています。しかし「具体的な結果」を求めた民衆にとってすれば、ノストラダムスの大予言は1999年に全く結果を出せなかったので、まがい物として見られるところに落ち着いているようです。それにしても果たして1999年の恐怖の大王の正体とは何だったのか、もしそれが現れているのだとすれば気になります。

世界には予言者として知られる人が大勢いましたが、国内で注目すべき予言者として、募集した歴史の授業で誰もが知ってる聖徳太子(厩戸皇子)がいました。その聖徳太子は『日本書紀』で「兼知未然(未来を知ることができる」と記録されています。
聖徳太子の記した『未来記』には、「聖徳太子の死後200年が経過して都が1000年栄えると黒い龍が来て、都は東にうつされる」という予言があります。
これは、平安京の繁栄、幕末の黒船襲来、東京遷都を明確に予言していたと言えます。
聖徳太子はさらに「それから200年後、末世の地獄の漆黒の鬼「クハンダ」が現れ、東の都はバラバラになる」というような予言をしています。東京遷都は1868年のことで、それから200年後といえば、2068年。
ほんとうに今世紀は、聖徳太子の予言した「クハンダによる日本破壊」の世紀であるとしたら、ちょっと恐ろしくて、防災グッズは購入しておきたいと思う次第です。

白魔術の歴史について

古代から現代まで続く、自然の魂を利用する呪術

白魔術については諸説ありますが、ボルタという哲学者の説によると、紀元前6世紀頃、古代ペルシャには既にあったとされています。
古代エジプト文明の頃、黒魔術との区別がなされました。
悪魔や悪霊の力を借りて願いを叶えるのが黒魔術とされ、対して白魔術は神や聖霊、天使、妖精の力を借りるものとされました。
宇宙やすべての自然の生命体、また聖霊や神の力を引き出して願いを叶える魔術全般が白魔術とされ、この中には占星術や錬金術も白魔術に含まれます。

古代文明の王族や権力者達は白魔術師と黒魔術師の双方を雇い、目的に応じて両方の魔術を使い分けたと言います。

すなわち、敵を黒魔術で呪い、幸運を呼び込む為に白魔術を用いていたようです。

白魔術は14~16世紀のルネッサンス期にヨーロッパを中心に、次第に全世界に広まっていきました。

白魔術に自然科学や自然現象、哲学を取り込んだのが「ヘルメス文書」です。
「ヘルメス文書」とは、ヘルメス・トリスメギストスが著したとされる神秘主義的な古代思想の文献の総称です。
内容は複雑ですが、中に占星術や太陽崇拝等も含まれています。
また、ヘルメスの言葉を刻んだエメラルド性のタブレットが存在し、そこには世界の誕生についてや万物の生成についての秘密が書かれています。
また、17世紀の版画には彼の言葉の全文が刻まれており、そこには
「万物はひとつのものから出来ていて、すべては同じ自然現象によって関連している」
と書かれています。

この「ヘルメス文書」が、白魔術に論理性を持たせ、理論的で系統的な基礎をもたらしたとされます。
そして、エルメス文書の影響を受けた白魔術が自然魔術と呼ばれるようになり、運気と幸せや富をもたらす魔術として現代まで世界中で用いられるようになりました。

白魔術にはおまじないによる呪術と、召喚魔術による本格的な呪術があります。
おなじないでは、自分と相手、双方に幸わせをもたらす方法です。
運命の男性と出会いたいとか、結婚したい、お金持ちになりたい、病気を治したいといった願いを叶える為に行うもので、負の要素を持つ相手を退け、正の要素を持つ味方に益することで自分に幸運をもたらしてくれる方法です。
これは自宅で自分で行うことも出来ます。

召喚系の場合はもっと高度で、白魔術師に依頼し、聖霊や天使を召喚し願いを叶えてくれるように儀式を行います。
魔法円、聖水、香料、法衣といった道具を使い、方位や日時も考慮して行ないます。

日本における白魔術は、古代中国から渡ってきたとされています。
雨乞い、五穀豊穣、疫病退散等を祈願する呪術として浸透していいったようです。
それが日本独自に変化したものが神社のおみくじ、お守り、絵馬等です。
現在では、パワーストーンを身に付けたり、自宅で出来る「おまじないセット」を購入したりする形もあります。
また、ゲームにも白魔術師が登場するものもあり、正義のパワーとしての働きをします。

このように白魔術は自然界に存在するものの魂の力を借りて、願いを叶えてもらったり幸せを呼び込んだりするものです。
太古の昔、人間が自然を恐れ敬ってきた気持ちが、自然と魔術と言う形になっていったものと思われます。
現在でも多くの白魔術師が存在し、恋愛専門や金運専門といったように、人々の願いの種類に応じてそれだけの魔術師がいます。
そして、これからも人間の願望に合わせて白魔術もまた変化、成長していくものと思われます。

人のオーラについて

人のオーラって見える人には見えます。
私も色までははっきりわかりませんが、良いオーラが出ている人は感じ取ることができます。
例えば、もうすぐ結婚が決まっていた男性社員がいたんですが、私は彼とは全く面識もなく喋ったこともなかったので結婚することも彼女がいることすら知らなかったんですが、近頃彼の周りがなんだかパッと明るい感じに見えるなと思っていたんです。

オーラの形

そしたらその後すぐに会社の別の部署の人からその人が結婚すると聞きました。
なんというのでしょう、ピンクと黄色、薄い緑あたりのシャボン玉のような感じのオーラだったと思います。
色ははっきりと言葉にはできない感じなのですが、光のようなものを感じ取ることができました。
彼を以前見た時はそんな感じはしなかったんですよね。
ですから、同じ人でもオーラが強く出るときと弱い時など、その時の気分や体調、募集要項や周囲との関係、幸せと感じているか不幸と感じているのかなどによっても違うんじゃないかしらと思います。
あとは、一つ不思議な体験があります。
私の叔父に最後にあった時の事を今でもはっきりと覚えています。
なんだか頭のあたりが明るいかんじだったのです。
とても気になりました。
決してツルピカ頭とかそういうのではありません。
何か発するオーラがいつもと違うように感じ取ったのでしょう。
叔父さんなにかあるのかなとちょっと気になっていたんですが、まぁ何かいいことがあったのかもしれないなと軽く考えていたんです。
しかしその後大変なことがおこりました。
叔父が急に脳梗塞になって倒れたと連絡があったのです。
手術して事なきを得たかと思ったのですが、手術でとったはずの血栓がまた今度は心臓に飛んでしまってダメでした。
あとでそれを知ったのですが、ああこれだったのかと思いました。
きっと天国に近い人の発するオーラを私は感じ取ってしまったのではないかと。
その時もちょっと親戚の不幸があったりしたもので、叔父も決してハッピーな気分ではなかったはずなのに、なんだか光のようなオーラが出ていたのでなんかおかしいなと思っていたのですが、体調が悪い時には黒っぽいオーラのはずと思って違うと思い込んでいたのです。
きっと天国に近い呼ばれている人のオーラだったのではないかとあとになって思いました。
それから家族などにもたまにそのようなオーラを感じることがあるので感じるたびにどきっとするのですが、大事には今のところいたっていません。
はっきりと見えるわけではありませんが、感じ取ることができるというのも善し悪しだなと思いました。
心配事が増えたりしますからね。
あまり気にしないようにしようかとは思っているのですが、やはり家族とか近親者のことになると気になってしまいますね。
またああいうことがないように祈るばかりです。
やはりそういうような気になるオーラを見てしまうとあとあと気になりますからね。
何かあったらどうしようだとか、叔父みたいなことになるんじゃないかなんてね。
私は心配性な方なもので。
結婚が決まった同僚のように、うきうきできるような、まわりの人もハッピーになるような幸せいっぱいのオーラなら大歓迎なのですが。
これからはこのようなウキウキできるような、ハッピーなオーラばかり沢山見ることができれば良いなと願っています。

人類と共に有り、今後も未来永劫関わる呪術という存在

マンガやゲームの中ではお馴染みとなっている呪術。
ファンタジーな出来事かと思われますが、実はその歴史というのは非常に古く、有史以前から人類と共に有ったという強く根付いた概念であることは間違い有りません。
日本に限って言っても、遙か昔邪馬台国の卑弥呼が呪術を持ってして国の統治をしていたとされることは広く知られていますし、さらにその以前からも呪術を用いていたことは用意に予想が出来ます。
世界に視野を広げてみれば、それこそ古代の四大文明以前よりも呪術というのは使われていた痕跡が残っているのです。
科学が発達した現代でも、昔ほどではありませんが呪術というのは根強く生き残っていて、それを信じる・実行するといった人は存在しています。

呪術を広義的に見れば「超常の存在から力を借りて、神託や預言などの人知を超えた現象を起こすこと」と言えますが、呪術というと一般的に想像されるのは「相手を呪い殺す」といった恐ろしいものです。
呪術というのはそういった恐ろしい面だけを持っているわけではありません。
呪術は、人を殺すことだけではなく生かすことにも用いられています。
例えば、東南アジアには今でも地域に根付いたシャーマンという人を見ることが出来ます。
シャーマンというのは土着信仰において、神や精霊といった超常の存在と交信が出来る人たちと言われていて、そういった方々がそのような超常の存在の力を借りて呪術を行い、病気の人を癒したりするのです。
科学的にみればあまり効果があるとは言い難いことでも、「病は気から」とも言うように治ってしまうことも多々あるようです。
同様に、アフリカの方ではウィッチ・ドクターと呼ばれる呪術医が現存しています。

世界の歴史を見ても判るとおり、呪術というのは人間が進化して集団生活を行うにあたっては必要不可欠な面があります。
科学的に見れば全く意味の無い行為であり、その関連性を見つけ出すことは難しいのが現実です。
日本の呪殺の代名詞ともなっているわら人形に釘を打ち付ける行為であっても、別に呪われる当人に危害が加わるわけではなく、全く意味の無い行為です。
雨乞いの儀式にしても、方法は様々ですが人間が数人集まった所で天候に影響を与える何かを成すことは出来ませんし、生け贄という方法が採られた所で何の効果も無いことは現代では当たり前のことです。
しかし、昔の人間というのは現代人のように知識が豊富ではありませんでしたから、「自分達の知らない原因不明なことは超常の存在が関係している」という風に考えました。
そして、その超常の存在から力を借りて行う呪術は、不可知の様々な現象からの不安や恐怖、怒りや憎しみといった負の感情を抑えるための抑止力として存在することになったというわけです。

現在では科学が発展し、インターネットを介して様々な情報が手に入るようになりましたが、それでも呪術が完全に消えてしまうということはありません。
何故かというと、全ての国に宗教という存在があるからです。
日本では神道、アメリカやヨーロッパではキリスト教、中東ではイスラム教に、東南アジアでは仏教やヒンドゥー教といった様々な宗教があります。
どの国でも国の根幹とも言えるのが宗教ですから、それとは切っても切れない関係である呪術は、もう人間からは外すことの出来ない物となっているのです。

人の歴史は魔術の歴史でもある!?

黒魔術の歴史は非常に古く、エジプト文明や古代イスラエル文明が起源とされており、世界的には邪術と同義とされている魔術です。
イスラエルのソロモン王は、唯一悪魔を従えることが出来た人間として知られており、彼が残したソロモンの鍵とゆう書物には悪魔の召喚方法や従わせ方が事細かに記載されています。
黒魔術とゆうのは魔法陣と呪文を使用することで悪魔と契約し、その悪魔に頼むことによって術を発動させることができます。魔術をかけた相手を不幸にしたり怪我をさせたり、最悪の場合には死に至らしめることもできる非常に危険な魔術と言えます。
通常は黒魔術師がその召喚を行うため、依頼者自身が悪魔を召喚することはありません。
もちろん黒魔術をかけるには、かける大きさに比例した対価が必要になります。その対価は契約した悪魔に支払う対価ですので、交渉を間違えると相手へ術をかけたとしても、自分の命も危険にさらしてしまう場合があります。ですから黒魔術師を通した交渉が必須なわけです。しかし、恨みや嫉妬に取りつかれた挙句、魔術師を通さずに自分で召喚を試みる人も多く、そうやって召喚した人は術をかけることは成功しても、呼び出した悪魔に取りつかれほとんどの場合非業の死を遂げるとゆう悲しい最後を迎えてしまいます。悪魔に取りつかれた場合には悪魔祓いを行わなければ悪魔の呪縛から解かれることはなく、人としての理性すら失ってしまうこともあります。
そうならないためには、自分で悪魔を呼び出すなどの行為をしてはならない、黒魔術を遊び半分で使用してはいけないとゆうことです。
西洋では魔術は一般的に広く浸透しており、通常は体を回復させたりする白魔術が有名なのですが、その魔術を悪いことに使用する黒魔術も社会の裏では浸透しており、憎い相手を苦しめるために黒魔術が密かに使用されていたとゆう記録もあるくらいです。中世ヨーロッパでは、邪術を使用して人を苦しめたとして魔女狩りが行われたほどです。

日本でも太古から黒魔術に近い邪術は昔から存在しており、世間でも有名なわら人形も黒魔術の一種と言えるでしょう。現代でもこのわら人形を使った邪術は密かに行われており、岡山県にある育霊神社奥之院とゆう場所では、今でもわら人形を使った邪術を行った後が見て取れます。
有名な所では映画にもなった陰陽師が最も知られており、平安時代には当時の権力者が陰陽師を重んじており、歴史の陰に陰陽師ありと言われたほどでした。
日本で言われる祟りや呪いの類は、陰陽師が使用した黒魔術であると一般的には言われており、西洋では募集した悪魔でしたが日本では式神と呼ばれる鬼など妖怪の類を使用して術をかけていたと言われています。
術の内容に関しては西洋も日本も大差なく、人を不幸にするための術でした。
ただし、陰陽師に関しては名前の通り陰と陽の両方の術を使用していたため、黒魔術師の様に悪いことだけに術を使用していたわけではありませんでした。
西洋で言うところの白魔術を使い、人々を幸せに導くのが陰陽師の本来の仕事でした。
このように、世界中で黒魔術かそれに近いものが太古の昔から現代にいたるまで使用されてきており、人の歴史は魔術の歴史ともいえるでしょう。

スピリチュアルな世界やカウンセラーについて

スピリチュアルという言葉は、テレビなどでも良く紹介されるため聞いたことがある人がほとんどだと思います。
ただ、言葉は良く聞くけれども、実際それが何を意味しているのか、またどんな事に利用されているのかについては、まだまだ知らない人の方が多いのが現実です。

中には、スピリチュアルに対して何か怪しいもの、詐欺まがいのものだという考えの人もおり、スピリチュアルという言葉を聞いただけで拒否反応を起こす人もいます。

スピリチュアルは、精神的な霊的なという意味を持つ形容詞です。
ですから、良く聞かれるスピリチュアルな世界とは精神的な世界、霊的な世界という事になります。

ただし、この場合の霊的な世界とは、死後の世界のようなおどろおどろしい世界ではありません。
私たちが暮らす現実的な世界とは異なる、別次元の目には見えないけれど、人生に大きな影響を与える重要な意味をもつ世界と考えるべきかもしれません。

最近では、このスピリチュアルを仕事としている人が増えています。
その代表的なものが、スピリチュアルカウンセラーではないでしょうか。
スピリチュアルについて特に関心のない人々にとっては、スピリチュアルカウンセラーも霊能者や占い師などと一括りにされてしまう存在です。

ですが、厳密にいうとスピリチュアルカウンセラーは、霊能者や占い師とは違うものです。
確かに、似通った部分もありますが、スピリチュアカウンセラーを生業としている人の多くは、自分は霊能者でも占い師でもないと考えています。

そもそも現代で取り上げられている、スピリチュアルなものの定義自体が明確なものではなく、専門家の間でも考え方は様々です。

ですが、一般的にはスピリチュアルカウンセラーは、今を生きる人々の悩みを解決して、より良い人生を送るためにスピリチュアルな世界から受けたアドバイスを依頼者に伝える事を使命としています。
中には、前世やカルマを視たり、守護霊からのメッセージを伝えるカウンセラーもいます。

このように、スピリチュアル世界は、目に見えるものではありませんから、どうしても疑いの目を持つ人々が出て着てしまうのですが、それはしょうがない事だと言えるでしょう。
疑いを持ちながら、スピリチュアルカウンセリングを受けても良い結果は生まれません。

そのため、スピリチュアルな世界に関心があり、物事がうまく進まないなど何か悩みがある場合や、人生をより良くしたいと考えている人が、スピリチュアルカウンセリングを利用すると良いでしょう。

もし、こうしたスピリチュアルカウンセリングを受けてみたいというならば、どんなカウンセラーを選択するかも非常に重要です。
スピリチュアルカウンセラーになるためには、何も資格は必要ありませんから、誰でもスピリチュアルカウンセラーを名のる事が出来てしまいます。

ですが、適切なスピリチュアルカウンセリングを受けるならば、養成講座を受けたり実際にスピリチュアルカウンセラーとして働いている人の下で修行をしたり、心理やカウンセリングの勉強をしているカウンセラーを選ぶべきです。

もし、カウンセリングを受けてみて何か違うなと感じたらカウンセラーを変えてみる事も必要となるでしょう。
スピリチュアルな世界は、まだまだ理解されにくい部分もありますが、中にはスピリチュアルカウンセリングによって、人生が大きく変わったという人もいます。
ですから、スピリチュアルな世界に関心があるなら、一度スピリチュアルカウンセラーによるカウンセリングを受けてみても損はないでしょう。

霊感が強くて占いと霊視ができるように

私は子供のころに、テレビで怪奇現象のテレビがあると好きでよく見ていました。
でもその類の番組を見ると気分が悪くなってしまうことがありました。
そのころに尼さんで霊媒体質の人がテレビで透視をやっていましたが、まさか自分もそんな脳力が開花するとは思ってもいませんでした。
私は好きな人がいて交際していました。
でもその恋は不倫でしたので、凄く悩んでいました。いろんな占い師のところで鑑定も受けましたが、結局は悩むようになって、自分で夜中にうちの屋上でぼんやりするようになってから、いろんな光る物体がくるようになったのでした。
それは怖い感じはしませんでした。それからスピリチュアルな本を沢山読むようになりました。そこである出版社に電話をしてチャネラーを紹介してもらったんです。その人のマンションに行って、透視してもらったら、凄くサイキックですねと言われてしまったのです。
あなたは霊感もあるし占い師とかになって人を助けることになるかもしれないといわれました。
確かに色んな人の募集や求人の職業が見えたりしました。それにその人のオーラの色も見えていたんです。私はそれから15年になりますが、現在ではネットでカード占い師と霊視による鑑定をやっています。
それはサイトに登録して副業でやっています。霊感を感じるというよりも、見ようとフォーカスするとヴィジョンが見えたり聞こえたりします。